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自立度

何をやっても学びが悪い人がいる。一方で学びが優れている人もいる。
「学び自体が苦手だ」という事実はない。
どの学びは苦手で、どの学びは得意か、ということはある。

だけどこの現実に反して、「どの学びも苦手だ」という人が実際にいる。

うだつが上がらず、馬鹿とか阿呆という言葉を体現している人はいる。
逆に何をやらせても一定の何かを得、学ぶ人もいる。

なぜこんなことが事実起こっているのか?教える立場にいる人は知る必要がある。

教え手は上手く行く人と、上手くは行かない人がいる「差」を目の前にした時
「自分自身の教え方に問題があるのではないか?」と考えることも多い。
考えつつ「相手の問題だよ」と思うことも少なからずある。

実際には教える側・教えられる側の問題ではなく常識観の問題が横たわる。

そのもっとも闇が深いのが

教える方が上、教わる方が下

という『自然な理解』による暗黙知にある。

この背景は心理的に服従感覚を持たせる。
その結果は2つに分かれ、

・ちゃんと服従しよう
・服従せざるをえないけど反発しよう

のどちらかの態度を心理的に取らせることになる。
ほぼ全ての場合で本人に自覚はない。教え手の方にも自覚はない。

どちらを採用する場合でも「自分が下」という前提が成立していることがわかる。
下であることを良しとする人は前者を
良しとしない人は後者を
それぞれ選択するようになる。

習得する内容の物事によって、どちらを選ぶかは異なるし
反発を選んだ場合も、それが薄い場合と濃い場合がある。
もちろん人によっても異なる。

さて。

このような前提で「教える」または学習、学び、教育などに手をかけるとどうなるか。
上下関係がベースにあれば、

上の者に才覚と人格があればあるほど下のものは伸びる

ということになる。
学びの精度は「上」に依存することになるので『上の質』が問われるようになる。

「上の質」が悪ければ反発は増えるだろうし
素直に服従する人は悪い結果を正しいとして習得することにつながる。

そして多くの人が知っている通り、この心理的上下関係の前提において
才覚と人格とを兼ね備えた講師などそうはいない。
才覚と人格があるものが、そもそも講師をしていない。
自分の人生と自分を生かすような何かをしているはずだ。

「上下関係の暗黙的な前提がある」というだけで学び手は多くのものを失う。
これは教え手の方にも根深くある事実で
たかだか「その技術や専門分野」が先行している程度のことで
自分を上に持ち上げたい、上なのだ、という心理が働くことが問題にある。

教え手も学び手も、この前提を脱却する必要がある。
学習や習得を自分のものにしたいと思うのであれば。

上下の関係があるということは、それは優劣を指す。
人の優劣ではない。
技術や専門分野の優劣を指す。
技術や専門分野が優れているからといって、人として優れていることにはならない。

なら「上下」という考え方は本当は正しくなく、
「未知と既知」という考え方が正しい。

何かを知らないことで社会的に、生活的に、実際に『下に立つ』ということはある。
それをよしとはしない現実は世の中に溢れている。
だから我々は学ぼうとする。既知を増やそうとする。
その増やそうとする過程のどこにいるか?によって上下は決まらない。

決まるのだとすれば、既知を増やそうとは「しない」者が事実下にあり
増やそうとするものは「現時点」があるというだけのことだろう。

話を戻して、
上下ではなく未知と既知で判断するとするならどのように考えられるのか。

り正確に習得し、反映できるように伝えられる

ことこそが、全ての結論になるはずだ。

これは教え手の才覚や人格を問わない。

学び手の結果

を問うことになる。

才覚がなくても人格者ではなくても、学び手が
より正確に習得して、正しく反映できていればいい、ということになる。

一方学び手の方も、この結果をいち早く取るためにはどうすればいいのだろう?
という問いかけを自分にしていく必要がある。

明らかに間違っているのは

・これまでの自分の学び方のルートに乗せよう
・今までの自分の上にこの学びを入れよう
・教える側がちゃんと教えてくれればわかる
・反復すれば身になる
・新しいことを習得するには時間がかかる
・正しい手順を踏めば、正しい結果を取ることができる
・一生懸命やれば少しずつできるようになる

ということになる。
これらは全て、「上下関係」時代の報われないやり方だと気がつく必要がある。

ならどうすればいいのか?というと、

・自分が何のために習得するのかという目的を定めている
・自分がどのように伝えられれば習得できるか?を採用している
・そのために必要な講師の選択と誘導をしている

ことに尽きる。
今さらあえて言うことではないかもしれないが
そうやって人物(講師)と手段(伝わる方法)を
自分で選択し、採用している人はいない。

誰もが雛形通り(英語を習うなら英語学校)にするか
気分や雰囲気(評判がいいしちゃんとやってくれそう)という
学習・習得には何の関係もないところに身を置こうとする。
この態度が「自分が下」であるという暗黙知を促進する。

だから教え手の側は自分の才覚や人格ではなく、

相手の成果に注目する

ことにコミットしなければならない。

そうすると多くの場合で、個別化された対応が必要になるし
その個別化に対応した技術を身につける必要がある。
「良き」物事を身につけるのではない。
「相手の成果」になることを身につける必要がある。

もうひとつは伝えること、つまりコミュニケーションを上達させる必要がある。
どのように素晴らしいものを手にしていても
それを相手に提供し、正しく採用される術がなければ意味がない。
コミュニケーションレベルが低いということだけは
講師の質が低いことだと、はっきり連動している。

なのにもかかわらず、
多くの講師は技術力の研鑽と正しさを追求する。誤っている。

教え手がここに正しく注目する。そしてできるようにする。
その時「自立の壁」に突き当る。

「自立の壁」は学び手の側にある。
上下ではなく、自分が何を習得する必要があり

なぜそれを知る必要があり
どのように知れば効果的であるか?を知っている

自立している相手

が学び手であればお互いスムーズに進む。
速く、質高く、その後のことまで想定して質のいい習得ができる。

しかし残念なことに
自分は下であり、ただ服従しながら自分の頭では考えないか
服従するフリをしながら反発するという態度を持ち越す人がいる。

自立ではなく「依存」する相手であることがある。よくある。

全面的に服従する人は、教わったことを機械的にインプットする。
何が目的で、なぜ学ぶのか、本当のところ動機を持たない。
言われた通り、言われたまま、「なぜ」をなしにしてそのまま採用する。
自分の頭では考えないので、行動は一見できているように思えるが
実のところその行動をなぜ行っているのか?の意味を持たない。
だから、

暗記することはできても行動はしないか、
行動することはできても(やってみても)成果には結びつかないか、
成果に結びついたとしてもそれを継続しない。

服従するフリをしながら反発する人は発言と行動が異なる。
「やりたい」「やります」「頑張ります」「やる気はある」と言いながら

習得そのものをなかなかしないか、自分の思うように解釈する
習得はしても行動しないか
誤った解釈による誤った行動(自分がやりたい方法)を取る。

理解や成果を曲げる習慣がある。
なぜそれを行うのか?の目的は意外としっかりしていることもあるが
その目的には絶対に至らないように取り組んでやる
という矛盾した態度を取ることが多い。
深いところでは反発する目的で取り組んでいるのでこういうことが起こる。

こういうことを起こせるのは自立しておらず
「これまでの自分で良い」という物事に対する依存があるからだ。

こういう2種類の依存に対して教え手ができることには限りがある。
限りがあり、成果は取れないかもしれない。
しかしやらなくていいということにはならない。

講師が伝え、行うことは3つある。

まず相手の中にある暗黙知としての上下関係を取り除く必要がある。
教える、教わるに対して自然と誤認している物事がある。
それは違う。そして個別に対応し、成果を導く必要があると伝える。
あなたにはあなたの個性に合った方法があり
その方法を採用することこそ「あなたが考えるべきことだ」とする。

次に依存を断ち切るための楔を打つ必要がある。
学びの依存には服従と反発がある。どちらも上下関係をベースにしている。
教え手は少なくとも、2つのことをいつも伝える必要がある。

「何のためにこれを習得するのか成果を基準にすること」
「そのために、あなたが私をどう使うか常に考えること」

そして最後に、習慣を持ち込ませないように手を打つ必要がある。
成果に反することを前の方法で行う時は指摘をする必要がある。
それを行うポイントを見定めて癖で物事を運ばないようにチェックする必要もある。
依存傾向が見られたら、そのために自分をどのように使うべきか話す。

待つ、痛みを与える。
押す、引く。
教える、学ばせる。
空気を和らげる、圧をかける。

習慣を断ち切るために効果効力のある方法を使い分ける必要があり、
これが自分のやり方だ、ということを押し付けてはならない。

そしてどの場合もコミュニケーションが必要であるということは変わらない。
教える上手さよりもはるかにコミュニケーションが重要だ。

それでも「自立の壁」がそびえ立つことがある。
教え手にできることは、適切な行動の全てを投入することだし、
コミュニケーションに頼るならもっと長い時間をかける必要があるかもしれない。
それでも壁は依然として壁のまま、ということがある。

教え手にできるすべてのことを投入してなお
学び手が依存、過去の習慣の保守、発言と行動の不一致が改まらないと
『決まっている』のであれば、
教え手にできることはそれ以上ない。

ここに無力感を感じる必要はないが、
ここに至らないことには正しく無力感を感じる必要もまたある。

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