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歴史から学ぶというアレ

というわけで、今回はいきなりですが「歴史」からです。
よく、様々な映画や漫画などで出てくるセリフに

人類は歴史から学ばなかった(学ばない)

というのがあり、聞いたことがある人もいるのではないかと思います。

どういう意味か。
はしょってまとめるとこんなことを言っているのがわかります。

・同じ過ちを繰り返す
・学習能力がない(低い)
・それを改める気も態度もない

セリフに「人類」とあるわけなので
個々人のやる気の問題ではないこともわかります。

いうなら教育体系の問題(歴史から学ばない教育)もあるし
そういう視点を身につけるという知覚上の問題もあるでしょう。
「知覚認識の方法を教育しないことの弊害」と言えるかもしれない。
あるいはもう一歩進んで
「人間機能として過去から学ばないようにデザインされている」
というような見方もできるかもしれません。

例えば人間心理で説明するなら

人が持つ「間違いを認めたくない」態度、
誤っているのに今更ということでどんどん進む態度、
誤りを信じ込んでいて妄信的に強さを振るう態度、
これまでの成功例で自分を正当化する態度、
そういう態度に反発することが目的の態度、
マイナス回避をプラス構築より上に置く態度、

などなどが人間やコミュニティの学習阻害を生んでいる・・・
とも言えるかもしれません。

歴史を見ればどの時代、どの場所でもこういう人がいることが書かれています。
そしてそういう人が改善されたということが書かれているのはごく稀なことです。

逆に歴史から学んだことを生かしている人のことも歴史書にはよく見られます。
歴史に残らないその他大勢の人は、ほとんど何も考えておらず
その時代の特徴に流されて生きているだけです。
その時代の特徴の上に、考えられる範囲のことを考えたり話しているだけです。

学習による向上が見られないというのはどの時代も(現代も)同じです。

そもそも『歴史から学ぶ』とはどういうことを言うのでしょうか。
誰でもわかることで考えると、歴史というのは過去のことを指します。
ということは、

過去から得た情報(法則)を自分(や現代)に生かす

ということが『歴史から学ぶ』ことだと言えそうです。
「生かす」というのは実際に使ったり、現実にしたりすることです。
知識として知って終わりなら、知らなかったことと変わりがないので
「歴史から学ぶ」ということにはなりません。

それだと「歴史を学ぶ」ということになります。

「過去」は1分前の過去です。1年前も過去なら1万年前も過去です。
そこに自分たちが、

・繰り返して愚かな結果にならないようなヒント
・取り入れることで向上させる答え

が隠されている・・・時にはおおっぴらに公開されている、ということです。

「自分の学習」を考えた時、どの過去から
得た情報(法則)を自分(や現代)に生かす
ことをするべきでしょう?

まず誰にでも当てはまるのは、自分のフィードバックをすることです。
間違えたのなら、なぜ、いつ、どのように間違えたのかを知る。
うまくいったのなら、なぜ、いつ、どのようにうまくいったのかを知る。
そして、
間違えず、うまくいくためにはどうすればいいか仮説を立てる。
その通りにやってみて、またうまくいくかいかないか検証する。

これが自分の歴史をフィードバックする方法の基礎です。

それとは別に「自分」とは関係ないところで知り得ることがあります。
それが「情報」です。
情報というのは、自分の感覚や経験を伴いません。
自分の外で起こっていることの伝聞のことです。
ニュース、噂・・・あれが健康にいいとか、宇宙にはダークマターがあるとか
そういった情報は全て「過去の歴史」になります。
誰かが何かを突き詰めたり、安易な答えを出したりし
それが広まったり、広まらずに消え去ったりするものです。

この「情報」に勉強による学習も入ります。

例えば僕が子供の頃、部活でサッカーをやっていました。
当時監督が伝えた情報はこうです。
「試合中は水を飲むな。水を飲むと状態が悪くなる」
それが当時の「論理的な」理屈(情報)でした。

それが真逆の「水分補給をする」となったのは
それから10年ぐらいだったと思います。

当時の監督は勉強による学習でその情報を採用していたはずです。

この情報の扱い、歴史から学ぶ、ということが
個々人の学習能力の高い、低い、を決めてしまいます。

学力がある、ない。高い、低い。
これを決めるのは情報の扱い方にあります。

簡単に言えば、ひとつの情報を得た瞬間「これだ!」と決めてしまうのは
学力が低いと言えます。
学習能力が低く、知覚が狭いという条件が当てはまります。

また普段は学力が低くはないのに、物事が変わってくると急に低くなる場合もあります。
例えば、

・感情的になりひとつしか選ばなくなる
・慣れているという理由で失敗のパターンばかり繰り返す
・無知すぎて他の選択肢が出ない
・突発的な状況でどうしていいかわからない

ということが起こったりします。
しょうがない場合もあれば、普段の習慣である場合もあります。
普段から学習しないから、物事の多くを実はこのケースで行っている人もいます。

また、自分の好きなことしかしないとか、気分で物事を選ぶ人も学力は低い。
そして意外に思うけもしれないけども
成績のいい人は学力が低い人が多い傾向にあります。
教科書通りの一通りが上手くでき、多くの物事を検討する力がないからです。

それから、同じ物事を行うのに手数が多すぎるとか、いつも同じ話をする。
無駄が多かったり、効率が悪い人も学力が低い。
これはフィードバックして学ばず、そしてその態度を自分に許してしまっています。
こういう人の学力が高いということはありません。

「歴史から学ぶ」というのは、自分の経験と多くの情報の精査から

・様々なケースを考えることができる
・それを実践する力がある
・検証によってより良い方法を選択することができる
・この3つを繰り返すことができる

ということです。

これをしない人が、例えば「自分の意見を持つ」とか
「自分らしく生きる」とか
「何か物事を成し遂げる」とかいうのは無理です。

幸か不幸か、誰もが「学力に見合った(比例した)生き方をしている」というのが事実です。
この生き方に連動した根本の知恵のことを『知能』と言います。
知能が高い、低いは極論すれば歴史から学ぶ力があるかどうかにかかっているということです。

何もしなければ遺伝子情報に備えられた過去の恩恵を、状況に合わせて使うだけ・・・という頭の使い方になります。
当然こういう人は学力が低いので、何を教えても、自発的に勉強しても得られるものは少ない、という結果になります。

自分の経験が狭い。
すぐひとつの情報に飛びつく。
しかもそれを簡単に信じる。
多くの情報を経験量を増やすなどして比較しない。

こういう傾向がある人に共通していることをまとめると
「視野が狭い」とか
「知覚が狭い」という言い方になります。

しかしそういう人であっても、ここだけは学力が高い!という部分があります。
それが

個人(自分)の利益に関すること

です。
例えばこういう人が商売を始めたらどうなるでしょう。
他に考えることがないので集中できるに違いありません。

利益を得たい気持ちは、視野が狭い人ほど欲から出ているので
その分野に集中すれば効率効果的な方法を取り入れて
大きな成果を出すに違いありません。

つまり一方向で成果に長けている人ほど、学力は低いといえます。

逆に多くの人が

全体の良し悪しについては学びが苦手

という傾向を持ちます。
例えば今現在の40代とそれ以下の人は
ごくごく普通に物事を考えてみれば年金は出ないか
生活できないほどしか出ないことがわかるはずです。

あるいは年金支給額を大きく食いつぶす増税があるはずです。

これはどのように勉強をしてみても効果的な解決を示すことができません。
経済原理だけではなく、政治でも同じです。
歴史という過去から学ぶにもモデルケースがありません。

なのにもかかわらず、人はダラダラと惰性で年金を収め続けています。
そして出ないかもしれないじゃないか!と文句を言っています。

同じように国の政策が失敗しているのにそれを継続し
後になってただ従っていた人が痛い目を見るということは・・・
歴史から学ぶことができます。
しかし誰もそうはしません。ここは多くの人にとって苦手分野です。

さらに「曲がってしまう」物事もあります。
「個人の利益に関する」が「全体の良し悪しでもある」というものは本当によく曲がります。
例えば健康情報や教育情報。
その情報はむしろなくていいし、ない方がいいということが広がっていきます。
どちらでもいいし、どうでもいいという物事に大きな価値がついてしまったり、
これは絶対に外してはいけないという物事が軽く扱われてしまうことが起こります。

そしてその流れが一度起こってしまうと
まさにそれこそが正しいかのような振る舞いとなってフィードバックされるので
それが常識となり、正しいこととして幅を利かせるようになります。

例えば日本の学校教育が6-3-3制なのは、アメリカ占領時に担当者の出身州がそうだったからという理由で採用されただけで深い意味はありません。
1日に30品目を取った方がいいという栄養に関する情報は、戦後の栄養がない時代から国がガイドラインを作る過程でどんどん増え、30品目に増えた頃には栄養失調の人はいなくなっていたのに、メディアに取り上げられたことで信じられるようになった・・・というような事情があります。

こういうのは大きな物事や強い物事に人が流されてしまう、という状態を生み出します。
全ての物事をひとつひとつ解明することは分量的に無理があるとしても
自分が自分として何かを学んでいくときに今ある常識に流される人もやはり
学力が低い人だと言わざるをえない。

学力が高い人と学力が低い人・・・頭を使える人と、頭が使えない人に
それぞれ何かを教えるとき
その方法や態度が同じであるわけがありません。

自分で学力を高める術がある人は、適切な情報を駆使できる人が教えると
相乗効果によってより伸びることができるはずです。

学力が低い人は物事を経験させ、知覚を広げさせ、知らないことを教え
興味を換気し、気がついてもらい、行動することを覚えてもらい、
その結果どうなったかフィードバックする習慣を持ってもらい
じゃあ次はどんな風になる可能性がある?と考える癖をつけ
やらせてみて失敗もさせ、成功させたらそれを指摘してより学習してもらう。
そんな方法がどうしても必要になる。

通常(特にひとつの専門分野に限るなら)講師やインストラクターの方が
受講生よりも学力が高い傾向にある。
だからといって、学力が低い者に高い方法を当てはめてはいけないし
といって、雛形と基礎ばかりでよしとはできない。
それは低さを脱出できても、高さには至らない。
また、基礎ばかり教えていると教える方の学力が下がることがわかっている。

経験させるには伝えるべき方法を知らなければならないことと
その情報が適切であると知らなければならない。
それを与えても受講生が元のパターンに戻らないようにする必要があるし
自分なりの努力でやった気分にさせてもいけない。

そもそも学力が低いということは新しい経験を採用しないということだ。
採用しているフリをして過去の情報に当てはめているだけということもよくある。
この壁を超える術を身につけている、というのが良い講師の条件だと思う。

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